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【こちら秋葉原一丁目ホームページ】Act.0005「“新世界菜館”主人が見た神田の過去・現在・未来」


2005年8月25日

 われらが秋葉原の地名を見てみると、中央通の両側は“外神田”、JR秋葉原駅と昭和通にかけては“神田佐久間町”“神田練塀町”、そして大通りとクロスして東西を走るのは“神田川”と、すっかり“神田”付いている。
 その神田に生まれ育って、“神田神保町”の一角で評判の中国料理店“新世界菜館”、“上海朝市”、“咸亨酒店(カンキョウシュテン)”の3店を経営しているのが傅健興(フウ ケンコウ)氏。実は、日本で上海蟹が食べられるようになったのは、“新世界菜館”の傅氏のおかげ(ホントですよ!)。
 秋葉原にはイイ店がないと嘆いている人は多いが、ちょっと足を伸ばせばこんなに美味しいものにありつける。お腹がいっぱいになったところで、秋葉原でガッツリ買い物というルートもオツなものだ。

どの店舗も、神田神保町の町で、異彩を放つ外観だ。左から順に“新世界菜館”、“咸亨酒店(カンキョウシュテン)”、“上海朝市”


街は“官”ではなく“商人”が作る

新世界菜館の傅健興(フウ・ケンコウ)氏
新世界菜館の傅健興(フウ・ケンコウ)氏

――“新世界菜館”というと、私は、神保町の会社に勤めていた15年くらい前まで、よく少子湯麺をいただいていたんですが、秋葉原にはお店を出されないんですか?

【傅】実は、再開発の話が進んできたときに、最初に声をかけられました(笑)。

――そうでしたか! 私が聞いたのは“秋葉原UDX”にできる飲食フロアは和食中心で集めたそうですね。IT系で来る人ってインド料理やエスニック系、それと中国料理が好きな人が絶対に多いと思うのですよ。刺激がないとダメなのになぁと思ったのですが。

【傅】そうですよねぇ。カレーとかね。

――クロスフィールドに入る企業の人たちは、毎日高級和食で接待するのか、って感じですよね。以前、傅さんがエドバレーの起業大学でお話されたのは、日本で仕事に来たアメリカ人が寿司をさんざん食べたあとに、やっぱり物足りなくて肉を食べに行くという話でしたね。

【傅】僕もクロスフィールドの会合に呼ばれますけど、だいたい僕は反対意見しか言わない。分かってないなーって(笑)。僕のコンセプトと合ってないからね。

――傅さんのコンセプトとは?

【傅】店というのは客が来るもので、店から出向くもんじゃないんです。1軒あれば十分で、そこに人が集って、それがお店のパワーなんだって。
 100店できたから凄いかというと、そんなのあっても発言力なんてない。ウチの1軒の方が全然発言力がある。そうでしょ?
 レストランにはどういう人が来るかが価値であって、売り上げが価値じゃない。そこが分かってないね。私の場合は、自分の年齢層に合わせてお客さんがいる感じなので、そのお客さんのキャリアアップに合わせて店をグレードアップさせてきました。でも、昔のものはいいものがあるので、どこかに残したいので別のタイプの店を作りました。これはアンテナのようなものだと思っているので、多店舗化するつもりは一切ありません。
 レストランって本来、店のオヤジの顔が見えて、コンセプトがハッキリしてるのがたくさんあった方が面白い。どこ行っても同じ店なんてつまらないでしょ。

――神田神保町では、お昼とかどこに行っていますか?

【傅】僕はあらゆるところ、全部に行っています。麺食いですが、カレーも、ほとんどのカレー屋は全部行きました。

――カレーはどこが好きですか?

【傅】“共栄堂”は美味しいですね。“ボンディ”もいいね……。ここらへんのカレー屋は、グレード高いですよ。1軒面白いのがあって、錦華公園の方のちょっと変わった個性的なカレー屋があるんです。トロミがなくてね、テーブルとカウンターの小さなお店で……。

――“メーヤウ”じゃないかな。信濃町の“メーヤウ”とは別なのですかな? 名前が一緒だけで、違うと思いますけど。

【傅】地域のレストランが分からないと戦略が立たないから、いろいろ食べ歩いてみるわけです。私のお店へは、丸の内とかからあらゆるジャンルの人がいらっしゃいますが。

――今は半蔵門線、新宿線、三田線と交通の便がよくなりましたからねぇ。でも、このあたりの本当の発展はこれからですよね。

【傅】そうですね、これから“面”の時代に入って来ますよ。

――渋谷・新宿から1本で来れて、大手町も近い。アキバって、ハンダゴテの焼け焦げが付いたジャンパーを着ているような人しかいなかったのが、スポーツ用品店でスケボーを買って、アキバ駅前の駐車場のところでスケボーをやっているような若者とか、それからファッショナブルじゃないんだけど、東京の東側の若人が一時期集まりそうな感じでしたよね。最近は見なくなっちゃいましたけど。

【傅】僕が今気づいているのは、僕ら団塊の世代は、若いときに楽しんだスポーツに戻ってきている。そういう人たちが目立っている。いいことだと思っているんですけど、僕もまたスキーを始めて、年に1回外国へ行きますよ。

――金持ちですねー。

【傅】自分へのご褒美(笑)。ご褒美はなるべく多い方がいい。
 昔はビクトリアも“安く安く”だったのが、今は、そこに行けばあらゆる種類の良いグレードのものがそろっているというやり方に変わってきました。われわれは良いものが欲しいんです。飽きないもの、本物が。「ビクトリア」も名前を変えて、そいういった層をターゲットにしているし、秋葉原に行けばスピーカーならとんでもなくマニアックな良いものが手に入る。これは良い傾向だと思います。
 そういう意味では、層の幅が広がってきている。ここ2〜3年が顕著になっている。



傅氏の会社「健興通商」は、ぬいぐるみの製造・販売・卸も行なっているので、社内にはそこかしこにぬいぐるみ達が……

――お客さん見ていて分かったことですか?

【傅】そうです。昔、ジャンクフードばかり食べていると味覚がダメになると言っていたけど、そんなことはありません。だからファミレスが苦戦しているんです。良いものを食べると戻れなくなっちゃう。あとで気づくものなんですけど、美味しいものって美味しいと感じたときに、もう後には戻れない。昨日、久しぶりにファミレスチェーンの中華屋に偵察に行きましたが、餃子はまあまあ美味しかったですが、ほかのものはこんなもんだなーって(笑)。でも価格競争力はあるんで、これからもお客は集まるでしょうね。

――僕は神保町に来ると“交通会館”の脇を通ってアキバに行くのがルートだったんですけど、そういう人って、あまり多くないんですかね?

【傅】多くないですね。荷物を持って歩けないでしょ。本を買う人と、アキバに買い物に来る人の層は全然違う。着てるものも違う。その間にスポーツ街がありますけど、あそこも人種が違う。

――じゃ、千代田区が考えている計画の1つで、書店街、スポーツ街、電気街を回遊させようとしている案はダメですか?

【傅】“商”に“官”が口出しちゃだめなんですよ。やりたがるんですけど、必ず無駄遣いになる。第三セクターは作っちゃダメなんです。仕組みを作って何か建てちゃうんだけど、“商”は普通の民間が考えた方がいい。“官”は最低限の規制だけ作るくらいが丁度いい。
 これまでの秋葉原の発展は官は何も考えちゃいないでしょ?

――しかも、時間を掛けて少しずつ変わってきましたよね。秋葉原と神田の関係性はどうですか。

【傅】スポーツの街、電気街の街と、お客さんがまったく街の回遊に貢献していないんですね。観光にしても、秋葉原へは買い物のためと1つの目的のためにいらしているので、回遊性がないんです。
 秋葉原の再開発は、唐津一先生が言い出したことで新しいIT基地にしたいという意向があって作り始めましたけど。これにしても、街というのはいろんな多用性がないと育たない。学者というのは、ある1つのものだけでやってしまうけど、それじゃ絶対にいつかダメになるっていつも言っているんですけど(笑)。
 あそこにもっと住宅を中心に建てるべきですね。マンションを建てれば人が集まるから、とにかくグレードの高いマンションを建てるべきだって。

――秋葉原をIT基地にするという話は平成13年頃だそうですが、当時、世界中にIT基地を作るという話が流行っていたのですよね。米国のシリコンバレーや中国の中関村がありますが、フランスはコートダジュールとか、日本も沖縄はどうだなんていう人もいた。ただ、個人的な意見を言わせてもらうと、シリコンバレーや中関村の場合を見ると、そこがIT基地になった理由は、学生がたくさんいたからだと思うのです。
 欧米の主要なIT企業はとっくに中関村に進出している。日本の企業はまだ少ないですが、マイクロソフトなんかは、世界に3つか、4つしかない中央研究所の1つを中関村に置いている。その理由は、北京大学や精華大学など、何十万人の学生がいるからしか考えられない。シリコンバレーも、もともとスタンフォード大学があったのが、その発祥と言われていますよね。だから、アキバをIT基地にするというときに、大学や研究機関が入るというのは、非常に正しいお話だなと思ったのです。ただ、サテライトキャンパスや研究室という程度だと、もうひとつですよね。もっと、大々的でないとね。
 以前、NTTドコモの大星会長にお話をうかがったときにアキバにこそ学校を作るべきだとおっしゃっていました。やはり、学生がいないところにIT基地が成り立つかというお考えだったのではないかと。アキバは、交通の便がいいから集まって来るだろうということもありますが。

【傅】神田界隈の大学は、中央大学、専修大学、明治大学、日本大学。法政大学や電機大学もありますし。そういう意味で、たまたまかもしれませんが、そうなりつつあるのかもしれませんよ。
 IT基地の中身を聞いてみると、ベンチャーのために入居できるようなSOHO用のシステムもあるらしいですね。情報交換のためにいいんじゃないかな。それにしても、日立製作所が入ることはないでしょう(笑)。いいビルが近くにあるのに。





マーケットがあれば、必ず商人は進出する!

――傅さんがもの心ついたときの神田というか神保町というのは、どんなでしたか?

【傅】昭和22年生まれですので、物心ついたのは20年代後半になりますが、良い街でした。前は都電が走っていて、ロータリーは芝の良い遊び場だったし。

――ロータリーはどちらにあったのですか?

【傅】駿河台下のところです。都電しかなかったので都電がなくなってから、都営三田線が通るまで10数年かかって、その間は陸の孤島でした。御茶ノ水、水道橋界隈は非常ににぎやかで、神保町はそういう状況とはかけ離れていましたから。

――冬の時代ですね。

【傅】三田線の工事は大規模なものでした。地面を30メートルも掘って、軒先まで土が山盛りになりました。半蔵門線と3層になることが当時決まっていましたのでね。私がここにビルを建てたのが49年くらいです。修行先から戻ってきたので、どうせやるならビル建てちゃえって。そこへ、地下鉄工事になったという思い出があります。ここらへんは岩波さんがビルを建てて、そしてウチが建てたので「こんなところビル建ててアホじゃないか」って言われました。全部借金でしたから。

――でも駅ができて、人通りができたら、街も変わったんじゃないですか?

【傅】そうなんです、あっという間にビル街になりました。コミュニティもなくなって、裏に神保町市場があったのですが、それもなくなってしまった。その当時のコミュニティで今残っているのはウチだけです。本屋さんも、真正面の本屋街は1キロに渡って、ほかの業種は1軒も入れなかったのに、今はいろいろ入ってきてますでしょ? 向いの“上海朝市”という店も、引き払うというので、私が引き取って。

――そういうことだったんですか! 前は何だったんでしたっけ?

【傅】“進山社”という古本屋さんでした。本当に変わってきました。たまたまウチが古本屋さんの協会と関係がよかったので、「お宅ならいいでしょう」と言っていただけたんですけど。そうでもないと、あそこに出るのは勇気が要ります。

――1丁目の方が再開発されて、神保町は人が増えて元気が出た気がします。奥のほうの古本屋さんや小取り次がなくなったのもあると思いますけどね。人口が増えたのって、重要だと思いますよね。

【傅】ええ、僕は昔から麹町と同じく、もっとグレードの高い建物を確保するべきだと思っていたんです。仕事も便利、生活もしやすい、そういうみんなが魅力を感じるようなグレードの高いところにすべきだと。本の集積地はある、スポーツの街もある、電気の街もある、ここはどこに行くにも便利だし近いので、買い物も便利なんですよ。
 やっと再開発で良いマンションが建ちました。商業施設なんて区が考えるべきでなくて、人が集まれば商人なんてのはどんなに犠牲を払っても出てくるんだと思っていますので。

――商売の人たちは、そうですよね。

【傅】そこにマーケットがあれば、必ず商人は出る! 人が集まるような仕組みだけを作ればいいんです。住めば、税金はあがるんだからそれでいいじゃないか、と。
 でね、街の潤いって“線”じゃダメなんです。“面”じゃないと。だから、表通りにはビル群があってもいいんだけど、一歩裏通りには、例えば“すずらん通り”とかには、いろいろなお店が必要なの。街の魅力って裏通りなんです。僕が危惧しているのは、昔の神保町はとても潤いがあったんです。木造建てだったせいもあるんですけど、今は木造は全部禁止されているんです。

――禁止されているんですか? 知らなかった。

【傅】ダメなんです。だから、僕はあえて変わった店造りをしているんです。こういう店が1軒あるだけで通りのイメージが、半径100メートルや200メートルくらいは変わる。だから意識的にやってね。ここのグレードを相当守っていると思っているんですけどね。



“咸亨酒店”は傅さんの故郷・寧波の家庭料理と紹興酒の店。屋根より高い柳が目印

――神保町の裏のほうの蕎麦屋とか、ありましたね。

【傅】昔の“藪蕎麦”さんとかね。あれがあるだけでどれだけ価値を高めているか。ちょっとホッとするじゃないですか。本屋さんは、共同ビルにして1階はなんとか守ろうという動きもあるんですけどね。
 “すずらん通り”にもっと個性的な店を出すべきなんですよ。……あんまり尖ったことを言うと「お前は」って言われますけど(笑)。
 神保町って文化の香りがしますね。本を媒介に、いろんなカルチャーが出てきているので面白い。昔は本屋のおかげで発展が阻害されているんじゃないかと思っていましたが、そうではないですね。
 日本の中で、一番世界に知られている地名が、京都と神田だそうですよ。

――神田なんですか。アキバじゃないんだ。

 【傅】アキバも知られてますよね。ここで言う神田は神保町のことですよ。みんなJRの神田駅に行っちゃうけど、あれは神田の端っこだから。そこが誤解の元なんです。今、神田を付けないようにしようという動きがあるんですけど、われわれは敢えて神田を付けようとしています。住所も“神田神保町”。





孫文も、周恩来も、神保町が拠点だった

3店舗の内の1つ、手延べ麺の店「上海朝市」。手作り肉まん&あんまんも人気

【傅】戦前、父が昭和の初めに中国の寧波から神田に来ました。ここら辺は昔は中華街のような様相を呈していまして。“すずらん通り”、“さくら通り”を中心に、中国料理の“維新号”とか“中華第一楼”とか“咸陽楼”とか、たくさんありました。横浜の地区には広東出身の人が多くて、神田には寧波という港町出身者が多かった。寧波は長崎のような感じで、遣唐使・遣隋使の時代から日本との貿易の場所でした。遣唐使・遣隋使たちは寧波の港から西安に向かって経典を取りに行っていました。僕の故郷です。
 今は、もう大変なくらい発展しています。場所は上海から南に200km下ったところにあります。上海は堆積台地でして、長江がどんどん浅くなっていて大きな船が入れないんです。寧波の沖に舟山列島があります。そこに5万t級の船が入れるコンテナバースが26バースあります。5万t級は水面から16メートルも沈むんです。その深さがないと入れない。大型船は寧波港に入って、そこから振り分けて上海に入ってくる。

――鉄鋼も? 日本は材料系が中国のおかげで急に景気が良くなって。

【傅】入ってきてますよ。で、父が14歳くらいで日本に来て、俎板橋あたりの雑貨屋で働いていたようです。ここら辺は大学が多くて、中国の留学生が日本に勉強に来るのに集まってました。

――中華街っぽく集まっていた理由はそのためなんですか?

【傅】中国のシステムの1つとして、誰かいると頼ってくる傾向があります。しばらくそこで居候して、それから新しい仕事を始めるなり、勉強して帰るなり。そういう店が何軒もあったんです。

――もともといて、大学もあるからさらに増えていく、みたいな。

【傅】ただ、留学生というのはお金がない。西神田に留学生を預かる宿舎があったんです。“日中友好会館”ですね。その裏が寮だったんです。今もありますね。そこへ周恩来や孫文なんかも寄っていたんです。留学生はお金ないから、レストランやっているとほとんどタダ飯。中国の人には互助の精神というのがあって、昔はね同郷の人を助けるのは当たり前でした。そこで働き口を見つけちゃ、あるいは場所が見つかると中華屋を始めて、どんどん増えてきた。
 今回雑誌の「神田」で原稿を書くために調べたら、昔の警察の職業便覧の中に、大正昭和の時代から、シナ料理屋がズラーっとあったんですね。それも今、国会図書館に保存されているんですけどね。

――では、都内の中で中国料理屋が多いのが、実は神田ですか。神田でもどこら辺ですか?

【傅】この地区です。ウチは戦後ですからね遅いです。戦前からあったのは、“揚子江”さん、“中華第一楼”さん、“維新号”さん、“漢陽楼”さん。昭和初期の資料に、新聞折り込みで中華屋の宣伝も残っていました。16店舗くらいの屋号が書いたチラシがあったのでびっくりしました。昭和初期にもうこんなことをやっていたんだ! と。

――神保町の歴史といえば岩波新書の「神田」に連載されたものだと思うんですけど、“東西書肆街考”というのがあったんですよ。神保町の地図が載っていて、本屋さんについて書かれていたものでしたが、中国料理屋さんについては書いてなかったと思うのですが。

【傅】友達に地図集めが好きなのがおりまして、聞いてみたら昔の神保町もあるというので借りました。屋号も全部書き込んでありまして、助かりました。書くとなると裏取れないとダメでしょう。オヤジは20年近く前に亡くなりましたし、お袋の記憶は、時代交錯があるのでかなり危ない、と(笑)。困っていたら、良いものと出会いました。
 だいぶ昔から学生街や本屋街であったことは確実ですね。

――昔からね。江戸末期からですよね。

【傅】教授たちは権威が高く豊かな人が多かった。学生たちは金がない。両極端だった。

――中華街になったのは、いつ頃なんですか?

【傅】昭和の初期です。昭和の初期に入ってきたのを“老華僑”と言い、古い華僑を指します。高度成長期に入ってから日本に来た人たちは“新華僑”です。ハッキリ分かれます。勉強とか、新しいビジネスのために来ました。

――出身地が違うのですか?

【傅】違いますね。東京は寧波系が多いです。神戸も寧波が多くて、横浜はガッチリ広東。長崎は北京の人が多い。何人かいると頼って行くという傾向があるんです。
 システムの1つに「無尽」というのがあって、非常に合理的なものの考え方で、1人が店を出したいときにはみんなが集まって、資金を出し合う。毎月元本を返済していくのですが、出資者の中でお金がすぐ必要な人は早く受け取るし、必要ない人は後から受け取る。でも金利は後の方が高くなるという合理的な方式です。だから、お金がなくてもすぐ店を出せましたね。今はそれはなくなりました。
 私も神田は本の街だと思っていたのですが、中華街だとわかっていろいろ聞いて回ったのですが、昔の世代の方に聴くと面白かったです。
 孫文は仙台にいきましたけど、拠点はここなんです。必ずここに寄ったんです。ここに寄って準備をしてから、どこかへ出て行くと。コミュニティがありましたからね。
 だからレストランをやっていると、留学生のためにやると全然儲からない。人は集まるけどタダメシ食ってんですから(笑)。

――“新世界菜館”も、タダで食わしていたんですか?

【傅】オヤジは、自分が苦労したせいか飢えるということを理解していて、相当やっていました。いろんな人から「オヤジさんは、人のことをよく助けていたなぁ」という話を聞きます。昔は、専修大学前あたりで小さな店をやっていました。疎開したときに日本の方がやっていて、そこから譲り受けたという話を聞きました。

――こちらに移転してきたのはいつですか?

【傅】戦中に専修大学のところで店を始めて、こちらには戦後の昭和21年です。向こうは借りていて任されてやっていただけです。オヤジは腰が悪くて、それで店を出すようになったんです。雑貨屋をやっていたのが、ソバ打ちを教わって、腰を痛めてできなくなったと聞いています。
 僕は、建築家を志望していたんです。





想像を遙かに超えた紹興酒

【傅】僕は新しいジャンルや比較的ベンチャーが好きなんです。ウチもいろいろと新しいことをやっているベンチャーの会社ですし。あまり目立ってないのですが1つのジャンルにおいては非常に変わったことをやっています。レストランだけじゃなく商社をやっていますが、そのきっかけは中国と日本の架け橋を始めたことでした。
 約20年前でしたが、そのとき中国と日本は接点がなかった。日本から見た中国は“竹のカーテン”といわれてました。特殊な食材のために、中国の生産者の中に入って、直接交渉しないとほかの中国料理店との差別化ができなかったんです。日中間には“日中覚書貿易協定”(LT貿易協定)以降の貿易ラインがありまして、それが唯一の窓口だったんです。それが非常に、オフィシャルなようでありながら、なんというか、私が“官”というのが嫌いで……アウトローなものですから(笑)、上海蟹の市場とか紹興酒の市場に直接乗り込んで、独自のルートで探して歩いた頃がありました。

――いつ頃なんですか。

【傅】1988年ですね。もともと紹興酒と上海蟹に興味あったのですが、これからのレストラン業界には差別化が必要だと思いまして。決まった商社を使っているとどうしても、自分の目に適ったものがなかなか手に入らないんです。
 ある日本の大使の方が中国に赴任されて戻ってきたときに、最後にプレゼントされたという紹興酒のカメを、たまたまウチのレストランで開けることになったんです。それがもう自分が最高だと思っていたものよりずっと、はるかに想像を超えたものでして。
 こんな凄いものがあると知ってから、いくら探しても手に入らなかったんです。それで自分で中国に乗り込んで探すことになりました。紹興酒は老酒の中のうち、“紹興”限定の老酒ですから、その地域で作ったもの以外は紹興酒とはいえません。それで紹興に行ってびっくりしたのが、昔の日本酒酒屋のように何百という作り酒屋が存在していたんですよ。現在は40近くまで削減されて、ある一定の技術レベルに達してない工場は存続できないようになり、品質向上に励んでいるんですけどね。そのころは、小さいところは24Lのカメを家内手工業的に何十かを作って、大手の工場向けにカメ売り専門に作っておられるところとか――沖縄の豆腐ヨウは泡盛を使って漬けていますが、中国の豆腐ヨウ、腐乳と言いますが、紹興酒を使って発酵させているんですけど――それ専用の紹興酒を作っているところとか、いろいろな紹興酒の使い道があるんですよ。
 いろいろ回って歩いていたのですが、いかんせん品質のばらつきがひどくて。24Lの瓶を1個ずつあけてチェックするのは大変な作業なんです。で、このカメ群が良いからと買うと、そのうちの3割が酸廃していたり、品質のばらつきがひどくて、いろいろな工場主さんと会って話しているうちに、品質管理が悪いので、これは技術レベルの高い職人と一緒に自分たちで作らなければダメだなと。工場を買収して、自分で作ってしまいました。

中国で金賞に輝いた「紹興大越貴酒」は、どの店でも飲める!

――作っているんですか! どれですか?

【傅】これ、全部ウチのです。「紹興貴酒」という種類なんですけどキリングループに卸しています。ウチの店には、別のラインで「大越」という名前で出しています。

――先日、こちらのお店で買って飲ませていただきました(笑)。でも作っているとは思わなかったな。

【傅】一昨年に香港で開催した“世界健康酒飲料大会”で2本の紹興酒を出品して、どちらか賞を獲れるだろうと思ったら、2種類とも甲乙つけ難いということで、金賞と特別金賞をいただきました。普通だったら金賞と銀賞になるのですが、両方とも金賞で、すごくうれしかったですね。紹興酒は紹興で作られたもので、紹興協会で作り方がキチっと決められていまして、それに沿って作られたものだけに示される名前なんです。

――あとからアルコールを追加したりは、ダメと。

【傅】ええ、法律で定められている生産工程を経たもの以外は老酒と決まっているんです。

――法律で決まっていると。省かどこかの?

【傅】国で決まってて、とても厳しいんです。違反すると認定が取り消されます。今、紹興酒として認められているのは20社ですので、ものすごい絞り込まれています。しかも毎年検査受けます。その中で国外へ出せる資格を持っているのは、現在10社。

――なんと! 並行輸入はダメなんですか?

【傅】並行輸入はやっているようです。それへの検閲がどんどん入っています。というのは、偽ブランドとかあまりにも劣悪な紹興酒が出回りすぎているためです。紹興以外の上海とか浙江省とかで作られたものとか。ま、材料はもち米と麦麹ですので、作ろうと思えば作れてしまうんです。ワインで言えば、ボルドー地方のシャトー名がつけられるのは限られてて、それ以外のものは“オーメドック”という呼び方があるんですけど、中国ではこの考え方はないんです。紹興の周りのという使い方がなくて、いきなり老酒になってしまう。もしくは黄色の酒。年老いた酒“黄酒”という呼び方しかない。もち米以外にも、穀類であれば、稗、粟、そのほかのものも発酵させればお酒になります。
 これが私どもの差別化の1つで、工場の規模的には6番目なんですが、品質では常にトップの会社です。

――「新世界菜館」は日本の会社なのに、中国でそんなことをやって良いのですか?

【傅】僕は中国国内の法人も持っているので、そこが出資してやっています。紹興酒工場の場合は外資は認められていません。

――紹興酒って、昔は宝酒造の800円くらいのしかなくって、中国料理は昔に比べてどんどんおいしいお店も増えているのに、酒だけはあいかわらずでしたよね。大きな酒屋でも1〜2種類しかない。ワインはずらーっと並んでいて、日本酒も80年代のブームのときに流通がよくなって品質もよくなったのに、紹興酒は全然別ですよね。
 香港とかよく行くんですよ。一昨年の8月から昨年の8月までで6回も行ってきたんです。向こうの友達とかと飯を一緒に食ったりするんですけど、普通の店でも美味しい紹興酒が出てきたりするんですよね。この落差はなんだろう、って。

【傅】僕も香港で、なんでこの紹興酒がここの店においてあるんだ、と驚くことがありますが、自分たちで仕入れるんですね。彼らは“商道”の原点ですね。

――ちょっと悪い評判が立つだけで、食べ物屋がつぶれるらしいですね。

【傅】ウチも品評会で賞を取ってから香港の商社が買いつけて来ます。香港で認められるということはメーカーにとって、非常に嬉しいことなんです。どの店が採用しているのかがとーっても大きいんです。

――どこに入っているんですか?

【傅】有名なところに、入っています(笑)。

 紹興酒が白いラベルなのは、ウチだけなんですよ。普通は赤とか金とか銀とかでしょ? 僕は、紹興酒というのはもともとピュアなものだから、と白にした。最初は異質だとか縁起悪いとか嫌われていたんです。そこで、基本の字体と色ベースは変えないで、龍を付けたりしているうちに受け入れられて、逆に変わっているんで非常に目立つ、と。で、まがい物が増えてきました。それはすべて協会を通してクレームをつけて止めさせているんですけど。

――では中国で出されているものと、日本のものはラベルが違うと。

【傅】基本は一緒ですけど、ちょっとこう、派手目にしてあります。

――中身は一緒ですか?

【傅】中身は一緒、とはいえ紹興酒というのは、いろんなグレードがあるんです。3、5、8、10、15、20年とあるんです。ウチの場合、ピュアモルトで作るというのが原点で、自社工場で20万カメ持っているんですけど、2万坪がカメで埋まっていてどうにもならない。これ以上大きくするつもりはないんですけど。
 そのうち、一番出るのが3年と5年。売りたいものは8年10年。その辺が一番紹興酒として飲み頃で、そのまま飲むのには良いんです。燗にするのは若いものです。燗をすることによって、酒の“とがり”を取るんです。だから、紹興酒というのは燗をつきすぎるくらい付けて、戻るくらいが美味しい。基本は、生のままでいただくのが一番かな、と思っております。

――紹興では女の子が生まれたら、酒を仕込むという話を聞いたことがありますが。

【傅】あれはね、花彫(ハナホリ)と言って、ブランデーのナポレオンと一緒で等級をあらわすものではないんです。昔の女の子というのは初潮を迎えると結婚できる。13、4才には輿入れという感じで嫁にやれるんです。今のわれわれから見ると20年くらいと思うんですけど、10年から15年の間のことを言っていまして、ほとんど迷信に近い。嫁にやるときには化粧ガメを作って、だいたい中国国内では5〜6年のものを入れています。

――カメじゃなかったりしませんか?

【傅】嫁入りのときはカメです。ビンでも花彫という名前をつけられるところもありますが、これも厳しく規制されています。基準はありませんが。

――3年、5年でも花彫と?

【傅】3年以上は花彫と付けられます。

――紹興酒用語って他にも、いくつかありますね。加飯酒(カハンシュ)とか、ボクは好きなんですが。

【傅】加飯酒は高いんです。米を増量しているという甘口タイプです。普通のものよりも、米を1〜2割増量しています。米はもち米ですね。原料はもち米と麦麹ですから。

――米を減らすとさっぱり系、増やすと甘口ということですね。

【傅】そうです。基本は加飯酒なんです。それ以外は輸出できない。

――じゃ、すべてが加飯酒で、単に名乗っていないだけなんだ。香港に行くとよく加飯酒とか書いてあるのに、日本では何でないんだろうと思っていたら。



紹興酒のカメ

【傅】すべてが加飯酒だからです。でも、そのグレード以外のものは入れてはいけないということになっているんですけど、香港経由で入ってきちゃうんですね。だから今年の“FOODEX(フーデックス)”に醸造協会の会長が見えてウチで食事をしたときに、そのグレードに達しない奴を20種類くらい集めてきて見せたんですよ。これだけのものが「これを紹興酒とうたっているんですよ、みんなイヤでも飲め」って、飲ませて。デジカメでラベルとか撮っていいから、持って帰って規制してくれーって。
 紹興酒を嫌いだったり美味しいと思わない人は、いい紹興酒にめぐり合えてないんです。われわれは酒屋さんには一切売らない。というのは、酒屋さんは外においてしまうじゃないですか。日が当たるところへガンガン置いてしまう。だからホテルとか高級レストランとかに卸ろさせていただいているんです。

――だからなんですねえ。いっとき、(麻布十番の)富麗華で出している紹興酒を探していたんですよ。あれは何なんですか?

【傅】あれはね、工場に頼んで直接仕入れてます。オリジナルでなくて富麗華さんが自分のラベルを付けています。

――自分で気に入った工場で酒を中国で仕入れて、というやり方ですね。お店で買うと、ものすごく高いんですけど、中国で買うときっと安いんだろうなーと思って探していたんです(笑)。結局、分からなかったんですけど。一般人が買えないルートなんですね。

【傅】そうそう、買えないの。ウチは唯一、“成城石井”さんに卸ろしています。スーパーに卸ろすと値段が見えちゃうんですけどね(笑)。ブランドイメージがありますので。

――さきほど、グレードがたくさんあるといわれましたが、1ブランドでも、名前に付け方とか変えているんですか?

【傅】実は、例えば10年物であった場合、10年は全て10年ものでなければならない、というわけじゃないんです。規制をしなければならないんですけど、今つくりつつあるところで、まだ、何の規制もないんです。今は、何十カメの中に1つ10年ものがあれば10年といってしまうようなものなんです。
 紹興酒にはすべてビンテージがあるんです。必ずカメに醸造年月日を付けなければいけないんです。作られて封印するときにビンテージを入れるんです。開封すれば何年ものか分かるんです。でも、それだとなかなか合わないので、いろんな流通経路を通るととんでもない値段になってしまうので、ブレンドされてます。

――え。ブレンドされているのですか!?

【傅】そう、若い酒を。

 ブレンドというのは、いろんな酒を混ぜているのではなくて、いろんな年代を混ぜているんです。ウィスキーと一緒。いろんな種類をブレンダーがブレンドして味を作りますけど、紹興酒も一緒。
 だから、20年ものなんてそんなに持っている工場はないのに、なんでそんなに20年が出てくるんだって(笑)。

――20年ものが半分入っていたら20年と呼べるとか?

【傅】もっとです。1割くらいです。半分しか使えなかったら、市場から20年ものがなくなるくらいです。

――カメごと買えば、そういうことはないですよね。

【傅】そう。でもカメごとなんて、リスキーですよ。外れが多い。“酸化”するのと“酸敗”するのがあって、酸化だと酸が強くなっているので飲めなくはないんですけど、酸敗は乳酸が入り込むので、飲めたもんじゃないです。
 醸造酒って本当に興味深いですねぇ。面白いですよ。

――こちらのは、美味しいですよね。お値段も思ったより高くなくて。

【傅】ウチの"売り"は生酒なんです。ビン詰めするときは必ず85度以上の蒸気殺菌をしなければならないんですけど、カメだとそのままをテイスティングしてもらえます。カメの紹興酒を召し上がったことありますか?

――おいしいですよねぇ。大好きです。

【傅】カメにもいろいろありますが、良いカメをどれだけ持つかというのが、差別化なんです。いろんな工場がいいカメが持ってますからね。それを少しずつ試してみたいじゃないですか。何種類かの紹興酒工場の酒を飲み比べてもらっているんです。
 どっちが美味しいとかでなく、酸味があるとかコクがある、さらっとしているとか、それを味わってもらえます。

――ソムリエみたいな職業はあるんですか。

【傅】杜氏はいます。向こうの場合は社長イコール杜氏であることが多いんです。中国の場合は、醸造用の杜氏は国家級と地方級がいますが、何年か前までは国家級は10人しかいなかった。そのうち4人が紹興にいます。残りの6人は紹興以外で、“福建老酒”や“蘇州老酒”とか、いろいろあるんですけど。で、4人のうちの2人がウチにいます。

――へぇ〜。すごい! その飲み比べはいつやっているんですか?

【傅】いつでもやれます。ウチは常にカメを持って良い状態にしてありますから、テイスティングしたいといえば、いつでも。メニューにも載っています。2500円のセットで3種類を召し上がれます。
 紹興酒のカメというのはずーっと置いておくと味が3層くらいに分かれるんです。比重があって、軽いさっぱりしたものと、分かれていくんですけど、上の方は、えも言えないさっぱりとした味でね。最初に飲むのには、そういうさっぱりしたものが飲みやすい。慣れてくるともの足りなくなるんですけど。
 ウチの酒の構成比は50%が紹興酒ですから。普通はありえない。普通はビールなんです。ウチはビールより紹興酒が出る。ですから、お客さんは非常にリピート率が高いです。





大きな上海蟹は何万杯のうちの数匹なんです!

本店“新世界菜館”。3店舗の中で、一番グレードが高い。話題の上海蟹は9月下旬から!

【傅】20年前の上海蟹はひどかったです。なにしろ定期的に畜養しているところはなくて。今でこそ、陽澄湖は有名ですが、昔は電話も車もなんにもなかったです。あの地区はみんな蟹を山のように食べていたんです。あれ、害虫ですから。蟹って夜行性なので、月夜の晩に湖から這い出してイネを切ってしまうんです。頭いいから、切って穂を食べちゃうんです。雑食で、なんでも食べちゃうんです。今でこそ、40cmくらいの高さの囲いを立てて、逃げないようにしていたんですけど、昔は畑を守るためにやっていたんです。今は違います。蟹が高いから。
 とにかく道も電話もない農家の家を訪ねていって、買い付けしていたんですけど本当に大変でした。湖まで行くのに道がないので、「あそこになんかありそうだ」って歩いて。

――最近ですよね。日本でこんなに上海蟹が食べられるようになったのは。

【傅】香港であんな上海蟹が食べられて、なんで日本でないんだ。って、実は流通ルートの問題だったんですよ。それを自分でやらないとダメだって気づきましてね。

――香港から持ってきたら新鮮じゃなくなっちゃうんですかね。

【傅】経由になると新鮮でなくなっちゃう。今は便数も増えたので、朝5時に仕掛けるとその日の午後5時には日本に着いて、午後10時にはウチに着く。

――香港みたいに、店の前に並べないんですか?

【傅】ダメダメ、それは水槽のいけすと一緒でどんどん味が痩せちゃう。一番いいのは冬眠させるんです。ある温度帯で湿度を保ちながら、紐で縛って動かさない。

――香港だと店の前というかデパートの一階とかで、ガラスのケースに入れたりして並べていますよね。ときどき、霧吹きで水分を与えたりしていますが。

【傅】中国の人というのは食べ物は活きていないとダメなんですよ。気に入ったのを食べるという習慣があるので。
 われわれは産地で縛って飛行場へ直送してます。それで鮮度が違います。うンまいですよー、上海蟹。
 紹興酒と同じで、みなさん上海蟹あんまり好きじゃない人が多いんですけど、美味しいの! それだけでも、もう、なんとも言えないです。感動します。ウチだけでも1万杯売りますから。季節の最後は2月で、蟹味噌は一年中。ウチの場合、チェックはしますが、もし開けて味噌がなかったら無償で取り替えます。基本はお客さんに選んでいただくんですけど。この業界ではほとんどの人がウチを知っていると思いますけど。

――昔って、日本では上海蟹はほとんど食べられるところがありませんでしたよね。口コミで、どこで食べられるか伝わっていましたね。ボクは、'89年くらいから、毎年香港まで上海蟹を食べに行っていましたが。

【傅】その必要なくなりましたからね。誤解されるのは、上海蟹って大きいものは「何年ものですか?」って聞かれるんだけど、違うのよ。大きいやつは何万杯の中の何匹か。というのは、食欲のあるヤツは食べてどんどん大きくなる。脱皮を年間4〜5回するらしいのですよ。で、「そんなに脱皮したら海が埋まっちゃうじゃないか」って言ったら、「その皮を食べちゃう」んだって。なるほどなーって。蟹は食いしん坊ですからね。
 育つには、ある程度の流れがないとダメ。結構難しいんです。日本にも蟹はいっぱいいるんですけど、日本の川って流れが速くて痩せているんで、あんまり大きくならない。四万十くらい緩やかな川になると、デカイのがいる。

――子供のときに家の近くの川で結構デカイの見ましたよ。淡水の蟹でした。あれは、上海蟹みたいなものだったのではないかと思うんですが。食べなかったけど……。

【傅】いやぁ、あれは蒸したらうまいんですよぉ。

――ああ、そーですか!

【傅】ほかには、ウチではクラゲを輸入しています。クラゲは私どもが仕入れて、日本で業者で分けてます。高級食材しかやらないんです。その他の食材は、いろんな業者さんがいらっしゃるので。ネットワークがあるので、いろんなものはやらない。一番になれるものだけを隙間を狙って。

――高級といえば、フカヒレですね。

【傅】フカヒレは一番になれないので、やらない。すごい業者がいて、勝てないなぁって。一応ウチも気仙沼の業者に頼んで、ある程度の卸はやっているのですが、とてもかなわない。今は中心は気仙沼から香港に移しちゃいましたけど。中国の景気が良いので、高級食材が全部、中国に行っちゃうんですよ。高級食材の原料はすべて日本産。あわび、ナマコも。

――すごい額でしょうね。

【傅】すごい額ですよ。全部ジェラルミンで運びますが、1つのジェラルミン1億円ですよ。現金でしか取引しないんです。青森の一戸とか二戸とかあの界隈の漁師たちはグラムいくらの値段を付けます。大変ですよ、みんなボディガードつけて。

――ボディガード!

【傅】だって、現金でしか取引しないから。

――クラゲも?

【傅】クラゲはね、中国だからコンテナで。そんな何億というものじゃない。ただ、産地は現金ですよ。絶対にガードマン付けてね。買うときは、船がクラゲを持ってくると、まず血抜きをして船から降ろして山に積み上げて、その山でいくらという“山買い”を加工前にします。90%は水ですから(笑)、それからミョウバンと塩で水抜きをするんですが、山のようなのがほんとーに小さくなっちゃう。分厚いのが薄っぺらに。見た目は気持ち悪くて汚いんですけど、キレイに皮をむいて……大変な作業です。中華食材に欠かせないです。
 それも今、中国で食べだしたので、フカヒレ、アワビ、クラゲがどんどん高騰して、困っちゃいます。

【取材協力】




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